はい、チーズ!

夫婦とチーズ(黄金色)とつばめ(黒猫妹)のこがねいろな日常@京都から大阪。

あくまで個人の意見と思い出です。

今回は本文と写真は一切関係なく…
ただただ個人的かつ感情的なひとりごとです。
どうぞ写真のみをご覧になって本文はスルーして下さい。


咲くと玄関前へと移される君子蘭も満開。

お隣の国では新大統領が選出されました。
そして対日政策がどうこうで一喜一憂する国のトップたち。
もしかしたらマスコミなのかもしれませんけど…


山野草の小鉢植えも玄関前展示に昇格です。


今朝の新聞では、新大統領は一昨年にとりかわされた「日韓合意」を国民に受け入れられていないので見直すとかどうとか。
それに追随して、マスコミ報道でよく慰安婦像の前でインタビューに応える激昂の女子大生らの映像を目にします。
いつまでも平行線のままで個人的にはこれ以上の関係改善はもういいような気もします。
現実的にはお互いの国を行き来して遊んだり商売したりはしているのですし。

1988年、東京に続いてアジアでは2度目となるオリンピックがソウルで開催されました。
それは1981年に名古屋との招致活動に勝利して開催が決まったそうです。
そして、日本も経済大国として?開催に向けてインフラ整備を支援することとなって、愚生も電力会社系の企業からODA機関へ技官として出向して約2年、基幹送電線の構築にある特殊な架線技術係に在籍していただけで無理矢理赴任させられました。

サラリーマンとして個人的な事情(結婚直前など)は受け入れてもらえるはずもなく…当時はまだ民主化されておらず治安も悪く「歴史教科書問題」で反日感情も高まっていた時期でしたので尚更です。
着任してすぐに感じたのは当時の韓国国民は「克日」意識が高く技術の習得には皆真剣で、そうなるとこちらもそれに応えるべく必死な毎日でした。
そして事件が起きました。もう少しで任務完了という時期にまた前記の「歴史教科書問題」がぶり返したようだったのです。今では考えられませんが当時は日本からの情報(新聞等)は一週間ほど遅れて手元に届いていたのでした。
ある朝です。ホテルの窓から下を見るとなんと群衆がなにかを叫びながら日の丸を燃やしていたのでした。なかなか事情が呑み込めなかったのですが、毎日行動を共にしていた後に親友となった通訳兼世話役のキム君から説明を聞いて事態を掌握しました。しかしながら危険な為にホテルの部屋からは出られずにキム君から差し入れでしのぎ一週間が経過していよいよ生命の危険を感じたのが部屋の水道、電気が止められてキム君からの連絡も途絶えたのでした。廊下にもいつも人の気配がしています。恐怖でした。
実は群衆を見た初日に我々チーム4名は連名で当時の全斗煥大統領に嘆願書を書きキム君に託していたのでした。ただあまり期待はしていませんでしたが…

その日の深夜に、戦闘服の数人が部屋に入って来て日本語で「空港へ向かいます。手荷物はひとつで」と言われて階段で地下行き、待っていたのはびっくり装甲車。
窓が小さくて外の様子はよく分からずにしばらくして空港へ着いたのでした。
そこには同じ様に派遣された技官が数チームいて初対面ながら皆で抱き合ったのです。
それは全斗煥大統領がこの少し前に国賓として初訪日していたこともどうやら命拾いの要因だったようです。

…という思いをしたからどうのとか、だからどうやぁ。という話ではありません。
ただ少し関係がギクシャクするとこの経験したことを思い出します。
国同士が仲良くすること…って難しんですねぇ。

以上、つらつらとどこかに痞えていたことでした。
お付き合いいただき、ありがとうございました。


「……。」